奥州藤原氏が起源の一里塚
現存する一里塚は、徳川家康の命により全国の主要街道を改修した際に築造されたものといわれていますが、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われています。
室町時代の一休(または一休に近しい遊女・地獄太夫)が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいます。
一里塚は街道を行き来する際、距離を計る目安として、江戸日本橋を基点に一里(約4キロメートル)毎に築いたものです。
須賀川の一里塚は、奥州道中(旧陸羽街道)に残る数少ないもので、東のものは径5メートル、西のものは径6メートルあり、二基相対し塚形がよく保存されている点では奥州道中唯一のものであり、日本橋から59番目のものとされています。
また、当時塚の上には榎【えのき】が植えられていたと伝えられ、街道を行き来する人たちが木陰で一休みする場としても利用されていたと考えられます。
塚のある旧国道の両側には、かつて見事な松並木がありましたが、現在は数本を残すだけとなっています。
国指定史跡とされたのは、昭和11年(1936)9月3日です。
子どもの頃はバス停がありました。
一里塚が残っていることは珍しいことを知ったのは、成長してからのことです。
そのくらい、この近所の住民にとっては身近なものです。
会津若松といわきの分岐点としてにぎわった須賀川
須賀川は蒲生氏郷時代に城下の再編があり、奥州街道沿いに南から本町・中町・北町が形成されました。
慶長3年(1598)には三町に問屋場・市場が置かれ、各町とも交代で高荷おろし、駄賃つけ、伝馬諸役を負担しました。
会津若松と磐城への分岐点でにぎわい、元禄2年(1689)、芭蕉は同宿の検断相楽伊左衛門(等躬)家に7日間ほど逗留し、地元俳人と俳諧の興行、史跡景勝の探訪などで過ごしました。
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