慧日寺とは?
慧日寺は、奈良・東大寺、法相宗の僧の徳一(とくいつ)上人といわれています。
徳一は奈良・東大寺と興福寺の学僧でしたが、東国に教化の旅に出ます。
そして、筑波山中禅寺を創建し、関東一円にある奈良仏教の最大センターとしました。
その後、布教活動のため会津へ下り、勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めています。
慧日寺は、最盛期には寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたといわれます。
その慧日寺は807年(大同2年)に開かれましたが、明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になりました。
その後、多くの人の復興運動の結果、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興されました。
現在は真言宗に属しています。
もとの慧日寺跡は、昭和45年に国の史跡に指定されました。
慧日寺跡は、昭昭和60年から発掘調査により、新たな遺構が発見されています。
現在も、慧日寺1200年の歴史が少しずつ解き明かされているのです。
慧日寺の史跡の面積は17万平方メートルという広大なもので、磐梯町の「本寺地区」「戒壇地区」「観音寺地区」に分散しています。
中心となる慧日寺 金堂などがある地区は「本寺地区」にあたります。
結界が張られた本寺地区
磐梯町駅から慧日寺の入り口にあたる橋のたもとには、結界が張られています。
二百十日に、五穀豊穣を祈って結界を新たにすると聞きました。
かつては別の意味で結界が張られていたのかもしれません。
また、史跡につづく道の両側に建つ民家をよく観察してみてください。
道に対して平行に建っていません。
どうも、家の正面が南面しているようです。
かつては、この地区に大小の寺があったことを思い起こせば、何か理由があるのかもしれません。
類例の少ない石敷き広場
平成9年に発見された自然石の石敷きの遺構は、全国的にみても類例の少ないもの。
東西30メートル以上にも広がっていることが確認された広場状のものです。
このような石敷きの広場は、奈良・興福寺の調査で平成14年に確認されています。
金堂の前庭に中門から延びるように石敷きの広場があり、儀式空間として考えられています。
徳一は、若いころは奈良の学僧であり、興福寺にも学んだとされていますので、その南都の技法を会津に持ち込んだものと想定されています。
また慧日寺周辺は、大小の川に取り囲まれており、境内の東方を流れる花川は、増水時には境内に流れ込み反乱の繰り返していたことが知られています。
さらに、磐梯山の豊富な伏流水の影響もあり、普段から湿潤で、融雪時にはぬかるみを作ります。
これら湿地・排水対策として、石敷き広場がつくられたという一面もあると考えられています。
慧日時にあった古尺「瑠璃尺」
国学者・平田篤胤(ひらたあつたね 1776-1843)と幕府祐筆の屋代弘賢(やしろひろかた 1758-1841)は、中国の古代度量衡を研究し、ふたつの物差しを発見しました。
ひとつは「象牙尺」と平田篤胤が呼び、現在は一般に「紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)」と呼ばれている聖徳太子が持っていたとさえれる物差しです。
「紅牙撥鏤尺」は東京国立博物館に収蔵されている重要文化財で、長29.6センチ、幅2.2センチ、 厚0.8センチというものさしです。
正倉院宝物の紅牙撥鏤尺をまねて、日本国内で作られたものと考えられています。
尺の長さは、当時使用されていた天平尺の標準的な値を示しています。
※天平尺とは奈良時代に常用された尺のことで、唐の大尺に等しい。曲尺(かねじゃく)の9寸7分8厘(約29.6センチ)にあたります。
もうひとつが「瑠璃尺」といい、平将門の娘・如蔵尼(にょぞうに)が持っていた物差しです。
この「瑠璃尺」は、屋代弘賢が写しをとったため、記録に残されています。
緑色に染められた象牙尺で、片面には花や鳥が、もう一面には寅から始まる十二支の動物が彫られ、側面にも草文が見られるというものでした。大きさは9寸9分5厘あります。
平将門と瑠璃尺
如蔵尼は平将門の3番目の娘といわれ、「今昔物語」には慧日寺のそばに庵を結び、住んでいたという記載があるほか、慧日時には如蔵尼の墓碑があります。
この如蔵尼がもたらした「瑠璃尺」ですが、明治の廃仏毀釈の折に行方不明となり、その後、骨董店に出回ったとも言われています。
その後、由水 常雄氏による『天皇のものさし』によれば、慧日寺旧蔵の「瑠璃尺」は、廃仏毀釈で寺の宝物が散逸した以降、薩摩出身の富豪・赤星家のコレクションに入ったといわれますが、大正9年の赤星家の所蔵品の売立て目録からは発見されませんでした。
その後、三井財閥の益田孝(鈍翁)の所蔵となりますが、やはり売立てられて姿を消します。
そして、平成17年に開館した九州国立博物館の開館記念特別展「美の国日本」に出陳され、現在は個人蔵となっています。
平田篤胤は、この「瑠璃尺」について次のような結論を出しています。
- 平将門が討たれたあとに残党が奥州に落ち延びた際、将門の国づくりのシンボルとして、如蔵尼が持ち出したもの。
- 将門は、この物差しを笏として手に持ち、新しい天皇(新皇)を名乗った。
- 紅牙尺と瑠璃尺は、ともに日本固有の古尺であり、中国からではなく古代のヤマトから伝えられたものに違いない。
平将門は、徳一上人が建てた筑波山中禅寺の信徒であり、また慧日寺の檀徒して名を連ね、山門も寄進しています。
慧日寺の瑠璃尺は、「天皇のものさし」のなかでで確認できます。
十二支が描かれた撥鏤尺は慧日寺の瑠璃尺だけです。
慧日寺の再建
発掘された創建当時の金堂は、間口7軒、奥行き4軒という規模でした。
小規模ながら、五軒四面堂として大寺院の格式を持たせたものです。
これら遺構と、建立年代、地理性などから、再建には次のような技術を使用しています。
屋根はとち葺
徳一が学んだ南都寺院には寄棟造の仏堂が多いこと、会津地方でも中世には寄棟造が多いことから寄棟造を採用しています。
また瓦は一枚も出土していないことから、植物性のみで葺かれたものと考えられます。
しかし桧皮葺は、土地柄から材料の入手困難と考え、中世以前の地方の山間部の建物に多い「とち葺」を採用しています。
寒さ対策の板床張
発掘調査では床面に石・磚敷き・土間などの跡が見つかっていないこと。
また「恵日寺図」でが長押が描かれていることから、床板を張っていたものと考えられます。
軒は積雪対策で持ち出さない
南都寺院では、金堂の組物を三手先(みてさき)として、軒の出を大きくするのが普通です。
しかし会津の積雪量とその重さを考えると、軒先を大きくする構造は難しいと考えられ、金堂であっても平三斗(ひらみつど)や大斗肘木(だいとひじき)のような軒先を柱筋から持ち出さない構造であった可能性が高いと考えられています。
猪苗代湖の誕生、慧日寺の開山
北に磐梯山、東から花川が流れ、北から南に下がった地形は、風水的に見ても優れた立地であったようです。
風水では「本身龍虎」と呼ばれる吉の地形で、山々に何重にも囲まれ、その中を幾筋もの川が流れるという場所でした。
大きく見ると、北面に磐梯山がつらなる奥羽連峰、南面に猪苗代湖という立地も、風水的には最高の場所だったのかもしれません。
そして、驚いたことに、慧日寺が開山される前年の大同元年(806年)には、磐梯山の爆発もしくは長期にわたる地震によって地盤が沈下して猪苗代湖が誕生しています。
慧日寺の開山と猪苗代湖の誕生が、ほぼ同時期というのも、なにか関係があるのかもしれません。
残念ながら、徳一の著作物は残っていないため、慧日寺の開山にまつわるエピソードは残されていません。
そして、磐梯山慧日寺は、磐梯山から猫の足のようにのびる裾野の小高い場所にあります。
史跡の入り口から町のほうを望むと、その高さがわかります。
徳一とは?
徳一は、興福寺または東大寺で法相宗(ほっそうしゅう)を学んだとされる人物。
法相宗とは、南都六宗の一つとして、7世紀中ごろから遣唐使として入唐した僧等によって伝わりました。
717年(養老元年)に入唐した義淵の弟子・玄昉は、興福寺において法相宗を興しました。
8世紀から9世紀にかけて、法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出しました。そのなかのひとりが徳一です。
そして、徳一は天台宗の最澄との間で、三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)で争います。
天台宗の根本経典である『法華経』では、どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られると説く一乗説に立っていましたが、徳一が著した『仏性抄』において一乗批判・法華経批判が行われました。
これに対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まりました。
法相宗は、早良親王の怨霊鎮めを行うなど、霊力をもって天皇家に仕えたといわれる宗派です。桓武天皇は、隆盛する法相宗を嫌って平安京に遷都したといわれています。
いっぽうの天台宗は、最澄が密教を取り入れることにより、怨霊鎮めの護摩焚などを行い、天皇家をはじめとする権力者と関係性を深めていく過程にありました。
仏教が最高の学問で科学であった時代、このような教義論争は宗派の存亡にも関わったことと推測できます。
恵日寺の仁王門
仁王門は、史跡入り口から右手のやや高い場所にあります。
現在の仁王門は、江戸時代後期に建立されたもので、平面の規模が大きく、木柄が太いという独特の特徴があります。
仁王門の奥には薬師堂
明治時代に再建された薬師堂。
慧日寺は現在も、会津五薬師のひとつ、東方薬師として親しまれています。
史跡巡りは1時間以上
慧日寺は、長い発掘調査を経て、平成20年(2008年)に金堂を復元、続いて中門が翌年に復元されています。
またライトアップイベントも行われており、平安時代の隆盛の様子を感じることができます。
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