延喜式にも記載のある神社
平安時代、905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった「延喜式」にも記載されている、陸奥一之宮が馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ) です。
延喜式神名帳に記載があるのは、当時朝廷から重要視された神社であり、一般に式内社と言って社格の一つとされていますが、現在では消滅したり不明となっている神社も多いなか、きちんと残っている神社です。
棚倉城から移転
本殿は、1594年に佐竹義宣が造営されたとみられます。
もとは棚倉城の場所にありましたが、1625年、丹羽長重により、現在地へ移転されました。
いくつもの鳥居があり、一の鳥居からは数百メートルもの距離があります。
宮司さんによると、神職および神社関係者が、この参道脇に住居をさだめ、今日まで守ってきたそうです。
昭和15年に鳥居が奉納されましたが、前年ながら右側の一部が、東日本大震災で欠け落ちました。
石段をのぼると二の鳥居があります。
全体に苔むしていて、古さが感じられます。
菊の御紋をお見逃しなく
見逃してしまいそうになりますが、菊の御紋がはいった小さな石橋があります。
日本武尊が創建したことがはじまりと伝わっていることから、天皇家のご参拝もあるほどなのです。
二の鳥居からさらに石段をのぼると山門があります。
山門をくぐるとさらに石段。
少しずつ参道を登っていくようなかんじです。
古墳のうえに移築
馬場都々古別神社は、都々古別三社(馬場都々古別神社、八槻都々古別神社、下野宮近津神社)の上の宮にあたります。
味耜高彦根命(あぢすきたかひこね)・日本武尊(やまとたける)を祭神とし、創建については、馬場都々古別神社・八槻都々古別神社とも縁起において、景行天皇(第12代)の時に皇子の日本武尊による起源が伝承として残っています。
『かつて「東夷」を鎮定した日本武尊(ヤマトタケル)が、初め建鉾山(白河市)に鉾を祭り、のちに大同二年(807年)坂上田村麻呂が近世棚倉城の地に移したと伝えられます。
寛永元年(1624年)に棚倉藩主丹羽長重が棚倉城を築城するため現在の地に神社を遷宮しました。(棚倉町タウンガイドより)』
境内には樹齢数百年の古木が茂り、棚倉城地より解体移築されたと伝えられる流造の本殿や、向拝一間に唐破風を持つ拝殿は荘厳です。
社宝には鎌倉時代源義家が寄進したとされる長覆輪太刀二口(国重文)や、赤糸威鎧残闕(国重文)などがあり、数多くの貴重な文化財が保管されています。
古墳のある場所のため、社殿の周囲にもいくつかの歴史的遺産がのこされています。
八槻都々古別神社は、都々古別三社(馬場都々古別神社、八槻都々古別神社、下野宮近津神社)の中の宮にあたります。創建については、馬場都々古別神社・八槻都々古別神社とも縁起において、景行天皇(第12代)の時に皇子の日本武尊による起源が伝承として残っています。
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