戊辰戦争白河口の戦いの西軍の戦死者の墓
長寿院には、1,000名ちかい死傷者を出した、戊辰戦争白河口の戦いで、新政府軍(西軍)として戦った戦死者の墓があります。
姓名や年齢が刻まれた墓は、ほとんどが一人ずつ建てられています。
はじめは、長州藩30名、土佐藩18名、大垣藩13名、佐土原藩19人、館林藩12人、薩摩藩27人、合わせて119人が埋葬されました。
しかし、薩兵墓群は、大正4年(1915年)に白河城(小峰城)跡の鎮護神山丘陵に「戊辰薩藩戰死者墓」をつくり改葬したことから、現在の被葬者は92人となっています。
捐躬報国(えんきゅうほうこく)の碑
長寿院は、「官軍寺」と呼ばれており、「官軍=政府軍」諸藩が白河に駐屯していたお寺です。
そのため、官軍側の慰霊碑「白河役陣亡諸士碑」があります。
篆額(てんがく)の「捐躬報国」は、官軍の最高長官だった有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王の文字です。
「躬ヲ損テ、国ニ報」いた「白河役陣亡諸士」の勲を不朽にすべく、これをたてるという、戊辰戦争白河口の戦いで亡くなった人々のための碑です。
JR白河駅から徒歩10分
長寿院は、酒蔵の大谷忠吉本店に隣り合うようにあります。
細い路地を入ると、右手に「慶応戊辰殉国者墳墓」と彫られた石柱がありますが、文字は風雨に削られたのか、はっきりしません。
脇本陣柳屋の蔵座敷は、文化元年(1804年)の建築で、明治14年(1881年)には、明治天皇が東北・北海道巡幸した際に、往路は休憩所、復路は宿泊所として利用されました。
また、戊辰戦争白河口の戦いの際には、新選組の斎藤一局長以下、106名が宿泊したと記録されています。
脇本陣柳屋の蔵座敷と、勧工場(かんこうば)は、白河市の歴史的風致形成建造物に指定されています。