会津藩主18回の江戸参勤を支えた重要ルート
福島県内で1位、2位を争う人気観光スポットとなっている大内宿は、山深い下郷町にあります。
大内宿には、30軒以上の茅葺き屋根の民家が立ち並び、江戸時代の宿場町がそのまま保存されています。
江戸時代には、会津城下と日光を結ぶ全長130キロにおよぶ、重要な街道の宿場町として栄えました。
会津街道(下野街道)の、会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備されています。
古くは、天正18年(1590年)に伊達政宗の小田原参陣に大内宿を通過したという記録や、豊臣秀吉による奥羽仕置きの際にも通行した記録が残っています。
もっとも利用した会津藩主は、18回におよぶ江戸参勤で通行しています。
また江戸廻米の輸送や、当時の会津藩と友好関係にあった米沢藩や新発田藩なども頻繁に利用した重要路線でした。
国選定重要伝統的建造物群保存地区
昭和40年代には、外部の研究者らが大内宿の生活調査や、建築物調査などで盛んに来訪するようになり、大内宿に残る旧宿場の街並みが再評価されるようになります。
なかでも、昭和42年に会津の茅職人の調査に訪れた武蔵野美術大学の相沢韶男(つぐお)教授(当時学生)は、宿場町を保存する必要を村に訴えつづけます。
そして、昭和56年4月18日に、重要伝統的建造物群の指定を受けることに至ります。
道路を覆っていたアスファルトもはがされ「土の道」に戻されたのです。
今では、毎年一度、重要文化財を守るための設備の点検として、茅野屋根の街並みに「放水の水しぶき」が見られます。
大内宿といえば高遠そば
高遠そばは、会津松平家の初代藩主・保科正之が、長野県高遠から移封してきたことに由来します。
保科正之は、会津転封の際に、家臣はじめ高遠城下の職人たちを一緒に連れて来ています。
そのなかには蕎麦打ち職人がおり、蕎麦は、保科正之が初めて藩主となった高遠藩に由来して「高遠そば」と呼ばれ、福島県会津地方に根ざしてきました。
また、保科正之は蕎麦好きだったといわれています。
山形や会津に蕎麦をつたえるとともに、4代将軍・家綱の補佐をしていた江戸にも蕎麦を広めたと考えられているのです。
高遠藩からは徳川将軍家に寒ざらし蕎麦を献上する慣例もあったほどです。
現在、長野県高遠町では、会津地方の蕎麦屋の支援を受け「高遠そば」を地域活性化の為の事業として取り組むようになっています。
高倉神社と高倉宮以仁王
大内宿はかつて山本村と呼ばれていたのですが、高倉宮以仁王(たかくらみや もちひとおう)が、一時この村に逗留し、里が宮中の大内(だいり)によく似ているため大内と改めたといわれているそうです。
「高峰の風吹き戻す山本にこころとどめし道しるべして」
という歌が、村の入り口にあります。
高倉宮以仁王を祭神とした神社のようです。
高倉宮以仁王とは、後白河天皇の第3皇子で、邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称される人物です。
「以仁王の令旨」を出して、源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られています。
この以仁王には東国生存説がながれており、その説のなかで大内宿に逗留したという伝説となってようです。
屋号を残す家々
年間で100万人以上の観光客がやってくる大内宿は、駐車場に車を置いて徒歩で散策しなければなりません。
その駐車場には、大内宿の屋号の入った地図があります。
街並みを見る前でも、見た後でも、この地図を見かけたら、ぜひ確認してください。
江戸の宿場町の様子を残す大内宿は、のんびりゆったりと楽しめるテーマパークのような場所です。
会津伝統の民芸品や食事を楽しみつつ、散策で疲れた身体は温泉でいたわってください。
会津地方を代表する温泉地・芦ノ牧温泉。
芦ノ牧の地名は、会津若松に居城を構えた芦名氏の、軍事用の馬の産地だったことから名付けられたといわれています。
【泉質】硫酸塩泉(カルシウム・ナトリウム・硫酸塩・塩化物温泉)
【源泉温度】60℃〜73℃
【適応症】
動脈硬化症、きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病
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